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Almama誕生物語

2026年6月20日 平山久仁子(Almama編集長)

「いつまでも歩く」の願いが、認知症で徘徊に

超高齢社会の今、90歳を超える長寿も珍しくない。
46歳で倒産した父は、93歳になっても走るほど元気だった。
それは倒産後に、再起を懸けて毎日3〜4時間ひたすら歩き続けて手に入れた健康だった。元々は丈夫ではなく、体の小さい寒がりな人だった。
ずっと自営だったためか、「健康な体だけが、次のチャンスを掴む力」と信じていた。しかし、再起の時は訪れず、時間が過ぎ認知症になると、その脚力は徘徊となって現れた。 

父は出かけたら、帰り道がわからなくなる徘徊については、本人は全く覚えがない。幸い父には面白い癖があり、帰れなくなると路上に止まっている車に乗り込む。そんなにうまく人の車に乗り込めか?と思うが、乗られる方に警戒心がないから意外とうまくいくのかもしれない。乗り込まれた方も相手が年寄り変だと思って、親切に警察に届けてくれたけど、、、。本当にそんな方ばかりだったのだろうか? トラブルもあったかもしれないが、父からそんな話は聞かなかった。それでも、その癖は確実に父の命を守った。年間2万人以上の高齢者が行方不明になる時代だ。

マダラボケの時に、一度聞いたことがある。
「帰れなくなっても、自由に出かけたい?」
「帰れなくなる?そんなことあったか?う〜ん。付き人をつけてくれ」
「えっ、」沈黙。
「しかし、そんなことできるが人は少ないだろ」
もちろん、うちは無理。富豪じゃない⁈
「自由が何より大事なら、どこかで見つかっても私は我慢するよ。楽しいならそれでいい。畳の上で死にたいなら、自由な外出は難しくなる」
「う〜ん、やっぱり畳で死にたい」
「そうか」

父が車をジャックして言うのは「平山栄一といいます。92歳です。家に行ってください・・・」だそうです。(警察の人がいいってました)
だが、肝心の住所は言えない。何を言っても、同じことを繰り返す「頼むよ。家に着いたら、母さんが料金払うから」?タクシーだと思ってる。

父は戦後早くから鉄工所を経営し、移動は車ばかりで電車の乗り方、特に切符が自販機での販売になってからはよく知らない。かえってそれが幸いした。親切な方々は父を警察に連れて行ってくれた。
だから父はパトカーで帰ってくる。母が迎えた時の機嫌がすごく悪い。警察に人が「お母さんが怒るから・・・」と言っていた。警察からの電話は「私知りませんから、娘に言ってください」とガチャ切られる。私は何度も仕事を切り上げ、警察に迎えに行った。度重なるのを警察の方が気の毒に思って、家まで送ってくれるようになりいました。

これでは、両親二人で暮らすのは無理。私には仕事もあり、夫婦で入れる施設を探し始めたある日、仕事場へ急ぎに改札を入りかけた時、父のデイケアのマネジャーから電話きた、
「今朝、お父様をお迎えに行ったら、お母様が倒れておられました。起き上がれないようです。介護ベットとポータブルトイレを手配しました。すぐ行っててあげてください」
「えっ、、、? ありがとうございます」
と言ったものの・・・。仕事はキャンセル(😭)とにかく、行く。

母は、介護ベットに寝ていました。聞けば、二日前に病院の整体で背骨を押してもらったから腰が痛くなった。電話で聞いたら「少しくらい痛くても動いて。動かないと動けなくなる」と言われ、動いていたら今朝、起きれなくなった。
「私が動けないと言ったのに、お父さんはほったらかして行った」と怒っている。怒る元気はあっても、動けない。

私は運転がきない。救急車しかない。だけどどの病院へ行く?背骨は折っているかもしれな。あまり痛がってないから圧迫骨折かもしれない、肝臓も悪い、認知症もある。専門医はどこにいる?
私は携帯で専門医を探す。専門医は学会にはいるはずだ、と考えた。を探す、学会から検索した。専門医は枚方の病院にいる。救急車を呼んで、その病院の専門医に連絡していると言った。(本当は全く知らない)救急で病院に着くと、5月の連休の最中だったので、当直医は受け入れを躊躇したが、連絡がついていると救急隊員いうので緊急入院。
翌日、指名された専門の医師は怪訝。
「どうして、僕を知っているの?」
「学会を調べ、先生が専門医だと知りました。先生のお力をお貸しください」
呆れたような一言。
「そう」
母は、手術で折れた背骨を6本のボルトで固定。喉に動脈瘤も見つかった。

もう、術後、両親は二人では暮らせない。施設は見つからない、どうする? 
母の手術以降、私は仕事ができない。二人の行き先探しが先決。
父は認知症で一人で家に居られない。デイに行っている時間だけが、施設を探せる時間。しかし日本の施設には、夫婦部屋がない。
「高齢者は、いろいろ問題があって、二人では置いておいて置けない」そうだ。結局、高齢者マンションを2部屋借りた。
入所後、母は父とは仲良くできず部屋には入れない。離婚したいと言い出す。父は母の部屋に入ることを拒否され、一晩中廊下の椅子に座っていた。そのうち徘徊も始まり、精神病院へ連れて行け。いや、単に妻に拒否され、心配している認知症の年寄りなだけだけど、は通用しなかった。


入所から2週間足らずで、また病院探し。神戸の認知症専門病院へ入院。初めは外出を喜んでいた父は何も言わず、悟ったように病院の入院書類に書けない字でサインした。何も言わず諦めたように。罪悪感が襲う。

そこから始まった薬漬け。自分で歩いて、話をしながら行った父は、3ヶ月で車椅子、薬で朦朧として話せなくなった。
先生に言っても
「薬の調整は難しいの。初めにガッツときつい薬を使い、徐々に減らして調整する』 

私はまた、知りうる限りの医師に尋ねた。最後にこの先生が仕方がないと言うのなら、諦めるようと思った先生から、セカンドオピニオンをと進められた。
「明石こころのホスピタル」

二人の旅立ち

父は元気に99歳1ヶ月まで生きた。100歳の約束を、少し慌てん坊に走っていった。でも、旅立つ日にもおやつのプリンを2口、好きな朝鮮人参茶を3口飲んだから、旅路は空腹ではなかっただろう。

いつも思い出すのは
「わしは、あんたのことが心配だ」
「私は大丈夫だよ」
「そうか、大丈夫か」
と言った瞬間のたことのない満面の笑み。同時に体の力がすっかり抜けて傾いく眩しく笑った。心配させていたら、もっと長生きしたのか?

それから、もっと急斜面を崩れ落ちるよう父は逝った。この頃の父の1日は、3ヶ月、6ヶ月のように加速していたように感じた。
「今日は死に衣装を持ってきたよ。旅立ちは寂しいから、ネクタイは明るめのものを新調したよ」
次の日、旅立った。

3年後に旅立った母も、最後までピンクの服が好きだった。最後に贈ったや安物のオパールの指は、指でくるくる回った。それでも、喜んだ。
「お気に入りの着物を持ってきたよ。死に衣裳は、やっぱり色無地でシャキッと行こうね」
と言った次のに日に旅立った。
コロナの最中で、最後に駆け降りていく姿を見ることが叶わなかった。
孫がピンクのウサギの花籠を納めた。二人だけの寂しい見送りだった。

二人は昭和の「モボ・モガ」で、父の事業が順調な時はとてもおしゃれだった。私も幼い頃はグランドの子供服ばかりだった。旅立ちも、美学にはこだわったようだ。